全 国 巨石磐座 探訪記 |
兵庫県 巨石 磐座 |
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日本の古代史に登場する主な女性は天照大神と卑弥呼、そして神功皇后である。 |
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この話は記紀を読む限り、誰が見ても歴史的事実ではなく伝説の域を出ていない。津田左右吉・著「古事記及び日本書紀の研究」には、「神の託宣の物語が事実を語ったものでないことは明らかである。・・・この話は事実あったことではないといわねばならぬ。」とある。むろん引用部分の前には歴史的事実としての論点を種々指摘している。 |
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真実はどうであったか、ということの追求はさておき、破磐神社には神功皇后の伝承が残されている。現地案内板記載の社伝を要約すると次のようになる。 神功皇后が三韓征討の後日本に凱旋したときに勃発した皇位継承の内乱(案内板では「忍熊王の難」)に備え、近くの麻生山で戦勝を祈願したところたちまち麻が生じこれで弓を作った。天に向かって試射をした三本の矢の内第三の矢が巨岩に当たって岩が三つに割れた。その巨岩がこの大磐石(割れ岩)である。 皇后はこれは吉兆であると喜び、その地に矢の根を祀り、後に仲哀天皇、応神天皇を祀ったのが破磐神社の起源である。後世になって北東に約1.7km離れた地に遷座したのが現在の破磐神社である。 |
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江戸時代の地誌「播磨鑑」は当時の医師平野庸脩によって編纂された書物で、復刻版によると、分散された形ではあるが神功皇后と破磐神社に関する記事が見られる。本書は「播磨国風土記」の他多くの文献を参照したといわれ、破磐神社の社伝の基になったのではないかと思われる。 |
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真実はどうであったか、ということが繰り返し脳裏に浮かぶ。前田晴人・著「神功皇后伝説の誕生」には「・・・遠征の事実などはなかったとしてよいだろう。以前には何らかの古い事件の反映だとする考えもあったが、事実無根の妄想世界であると断定してよい。」とまで述べている。古事記・日本書紀もタジタジというところか。 過ぎ去った過去の真実はどうであれ、現実に残された割れた巨岩に、古代の伝説がインプットされているということは、巨石は時代を超越して古代を未来につなぐ絶好の媒体と云えるのではなかろうか? |
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参考文献; |
現地案内板 |
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