全 国 巨石磐座 探訪記 |
愛媛県の 巨石 磐座 |
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四国北西部に連なる瀬戸内海の島々の中で、大三島はひときわ大きな島である。西瀬戸自動車道はしまなみ海道とも呼ばれ、広島県尾道市から愛媛県今治市に至る快適な高速道路である。尾道から向島、因島、生口島、大三島、伯方島、大島を美しい橋で結んで今治市に至る。また、自転車及び歩行者のための道路も併設されていて、サイクリストたちの人気が高い。 |
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しまなみ海道は大三島の東側を縦断し、大三島ICを出るとそこは今治市大三島町で、愛媛県の最北端にあたる。島には安神山(267m)と鷲ヶ頭山(436m)があり、その麓の大山祇神社が島の鎮守、つまりこの島のかなめとなっている。大山祇神は山の神の代表で、同時に海上安全の守護神でもあり、天照大神の兄神に当たる。大山祇神社は伊予国一宮で、全国の大山祇神社・三島神社の総本社である(神社説明板)。 島の鎮守が山の神様であることにある種の疑問を抱いていたが、二つの山に登ってみるとそれは霧散した。標高は五百メートルに満たないが、登山道を辿ると山の深さを実感する。 |
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安神山の中腹から広がる巨石群の光景は圧巻である。「日本の神々 第二巻・・・大山祇神社」の項には、「・・・・・かつての磐座とおぼしき巨岩が群在する。」とあり、また、「芸予叢島史」によれば、島の人々がそれぞれ巨石に「たていし」、「よめいわ」、「こうごう岩」、「べんけい岩」、「えぼうし岩」などと名をつけたそうである。 |
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だが登山当日に、その名と実物とが識別できたのは烏帽子岩だけである。頂上には竜王社を祀る小さな祠があり、烏帽子岩はそこからすぐ先に見える。鷲ヶ頭山へ向かう登山道の途中に屹立している、巨大な烏帽子岩を直下で見ていると、これは安神山のシンボル的存在ではないかと思えてきた。
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下山後大山祇神社へ戻り、二つの山は神体山かどうか、また磐座はあるかと社務所で聞いてみた。返ってきた返事は「ここの山は信仰の対象でもないし、磐座も存在しない」ということだった。しかしながら、神社の背後に山があり、その山中に巨石が存在するならば、巨石を伴う山岳信仰の可能性を考えるのが自然というものであろう。 |
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今治図書館で文献を調べてみた。 2) 「芸予叢島史」の記述は前述の「日本の神々」の中に引用されているが、さらに本書は安神山で弥生式土器や石斧等が発見されたことにも触れ、「この地方の大昔の人人は、石器を使ったり、巨石を崇拝したり、弥生式の土器を使ったりしていたことは、まちがいのない事実であるといえよう。」と述べている。 3)「日本の神々」には、先述したが、「・・・・・かつての磐座とおぼしき巨岩が群在する。」と書かれている。事実、安神山の登山道からは、まさに「巨石が群在する」光景をみることができる。 4)「大三島町誌(大山祇神社編)」には「・・・鷲ヶ頭山がかつて「神野山」と呼ばれ、今に山頂に「神野」の名をとどめている一事からも、大山祇神社の神体山であることは疑う余地もない。鷲ヶ頭山につづく安神山も神の山であり・・・」と述べている。 |
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大山祇神社社務所にいた人は白い衣服をまとってはいたが、どういう立場の人かは分からない。 社伝によると、大山祇神社は神武天皇の代に、祭神の子孫である小千命が東征に先立って瀬戸内の治安を司ってこの地に鎮祭したことに始まる。 |
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「大三島町誌(大山祇神社編)」では、神社の創祀は必ずしも明確ではないとしながら、一般に流布されているという、島の南東部にある上浦町瀬戸に祀られていたがやがて現在地に遷された説を紹介し、これについては再考を要するとし、古代の祭祀形態が、磐座等に神を迎えて行なう「神籬(ひもろぎ)祭祀」であったことに着目し、磐座を拝する最適の地は現在の本殿が鎮座する場所である、としている。背後の山の方向へ数百m歩くと生樹の御門がありそれをくぐった先に仏式の奥の院がある。ここが公的な神社の起源であると理解し得なくもないが、真の起源は背後の神体山にあるのではなかろうか。 山の状況と文献も含めて考えるに、かつて人々は巨石と山を崇拝していた事実は現在にも引き継がれてはいる。 しかしながら、日本のどの神社の歴史も深く膨大で、そのルーツは深淵の先にあって、忘れられていく宿命にあるのかもしれない。 |
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(株)学習研究社・発行「大山祇神社 神社紀行」 |
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