巨石と 磐座 探訪記 |
静岡県の 巨石 磐座 |
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大国主像(出雲大社) |
大国主の命は、日本の八百万の神々の中で、私たちにとって最も馴染みの深い神様であると云えよう。稲葉の白うさぎ伝説や、稲佐の浜の国ゆずり神話など、幼い頃から親しんできた。また、オオナムチの命や大黒様など十数個の別名を持つ事でもよく知られている。古事記の白うさぎ伝説では、大国主は兄弟神たちの旅の荷物運びの従者として描かれる。 その花嫁探しの旅において、彼らの求婚を断った女性が大国主を相手に選んだことから、兄弟神たちに恨まれてしまう。 |
出雲大社 |
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彼らの策略によって猪狩りを命じられ、兄たちが猪に似せた大きな岩を真っ赤になるまで焼いて山の上から転がした。下で待ち受けた大国主はそれに押しつぶされて死んでしまう。それを聞いた母神は、蚶貝比売命(キサガヒヒメ)という赤貝の女神と蛤貝比売命(ウムギヒメ)という蛤の女神を呼んで、死者を蘇らせた。二人の女神は貝殻を刻み磨って粉にしたものに母乳と蛤の汁を混ぜ、大国主のやけどした体に塗って治療した、と語られる。 生き返った大国主命は後に、少彦名命と共に国土を開拓し、出雲の国を平定したが、天つ神に国を譲れと迫られて最終的には出雲大社に祀られることとなった、と伝えられる。 |
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さて、策略の猪狩りをした山は、伯伎国(ははきのくに・・・鳥取県西部)の手間山とされる。にもかかわらず、その時に使われた真っ赤に焼いた岩がどういう訳か、赤猪石(あかいし)として遥か離れた浜松市舞阪町の岐佐(きさ)神社の境内まで移動してきているのだ。 |
岐佐神社 |
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当神社のご祭神は前出の蚶貝比売命と蛤貝比売命の二柱で、水産、漁業の守り神、地域の氏神とされる。由緒によると、15世紀末の大洪水のときに「敷智郡岐佐大明神」と記された小さな祠がこの地に漂着し、それを奉祀したのが現在の本社である。敷智郡とは出雲ではなく、かつて浜松地方に属していた。赤猪石は丁度猪の大きさと言ってもよく、全体に赤みがかっている。しかし、はるか昔の出来事だとしても、炎で焼いたとは思えない。この岩石の性質として赤みを帯びているだけのように見える。現在地の前は鳥居近くにあったというが、それ以前の来歴は不明である。 |
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出雲の地と浜松との係わり・・・・・。その距離感を不思議がる事はない。神話伝説の世界は壮大で、由緒を語る巨大な岩が遥か遠くの地へ移動している説話はよく見られるのだ。天の岩戸は各地にあり、熊野地方のイザナミ神話が伝わるイザナミの御陵が広島県にあったり、イザナミが産んだカグツチがその父に斬られた身体の一部が岩と化して九州に祀られたりしている。つまり、神話伝説の世界感は我々の地理的感覚を超越しているのである。 |
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参考文献: | 現地説明板 静岡新聞社・著「石は語る」 三浦佑之・著「口語訳古事記」 舞阪町史研究会・編「舞阪町歴史散歩」 三浦譲・編纂発行「全国神社名鑑<上巻>」 舞阪町史編さん委員会・編「舞阪町史 上巻」 |
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