全 国 巨石磐座 探訪記 |
福井県 巨石 磐座 |
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福井県北東部に位置する勝山市は恐竜博物館等恐竜に因む施設に人気がある一方で、白山信仰の拠点となった平泉寺白山神社も多くの人々を引き付けている。 冒頭の巨石は、同じ平泉寺町のはずれにある大矢谷地区に祀られている別の白山神社の磐座である。平泉寺白山神社は大勢の参拝客で賑わうが、こちらは人里離れた場所にひっそりと鎮座している。白山信仰の裾野は広く、白山神社と称する神社は約1700社もあり、ここもその一つである。県道26号を逸れた狭い農道を歩いた先にあり、鳥居越しに巨岩が見える。 |
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加賀の白山は古くから、駿河の富士山、越中の立山と共に日本の三名山の一つとされてきた。「日本百名山」の著者・深田久弥氏はその「後記」において、百名山の選定基準を述べた項で、「人々が朝夕仰いで敬まい、その頂に祠をまつるような山は、おのずから名山の資格を持っている。」と述べている。先の日本の三名山はむろんその中に入っている。 |
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白山は8世紀前半、修験道の僧・泰澄(たいちょう)によって開かれた。717年、白山頂上に社殿を建て十一面観音を祀ったとされる。平泉寺町は、白山の山裾が途切れる西南端にあって、当時年々盛んになっていた白山信仰の修験者のための拠点となったのが起源とされる。平安時代末期には比叡山延暦寺の配下となって天台宗に属して発展した。平泉寺が最盛期にあった頃、浄土真宗の布教活動と相まって一向一揆の大動乱が勃発した。(16世紀後半) その結果、一揆の急襲と放火によって全山を焼き払われた。約十年後、焼け跡に顕聖院が建てられ平泉寺の復興が始まり、羽柴秀吉に保護された。続く徳川氏の時代には越前藩主松平秀康に庇護され地域は豊かになる。顕聖院は幕府の文書では玄成院となっていて明治初年全国的な廃仏毀釈により白山神社となって現在に至る。祭神は伊弉冊尊(いざなみのみこと)、大己貴の命(おおなむちのみこと)、天忍穂耳尊(あめのおしほみみのみこと)の三柱で、白山三所大権現と云われる。 |
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御手洗池 |
現地の由緒によると、泰澄大師が白山登拝の途中、現在は境内にある御手洗池を発見し、そこで白山の神の宣託を受け、当地に社を建てたことに始まるとされる。ここで疑問が生ずる。つまり歴史上では、当社は明治の代まで寺院として登録されているので、神社としては明治から始まったように解釈できる。しかし現地の説明板には、創建は養老元年(717年)となっていて、「後世一般に平泉寺の名で知られたため寺院であるかのように思われてきたが本来神社である。」と書かれている。では何故、717年、白山頂上に十一面観音を祀ったのであろうか? |
平泉寺白山神社 |
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平泉寺白山神社 |
その答えは神仏習合・本地垂迹の思想にある。つまり、日本の神々は、様々な仏の化身である、と云う。現在は制度上神社と寺院は別々のものであるが、日本人の宗教観の柔軟性によって、外来の仏教を従来の神道思想におおらかに取り入れて融合させてきた。寺院の境内に鳥居が混在する例も現存する。そして大方の日本人は神社とお寺の両方を信仰する器用な習慣をもっている。 |
平泉寺白山神社 |
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大矢谷・白山神社 |
「福井県神社誌」などによると、大矢谷の白山神社の創建は1522年、祭神は武甕槌命及び白山大神(伊弉冊尊)という記述が見られるが、巨石については書かれていない。 鳥居をくぐって進むと、巨大な岩塊が社殿に覆いかぶさるように迫りくる迫力に圧倒される。当神社が創建されるはるか以前に、泰澄大師はここを訪れて、巨岩に包まれるようにして一心に修行したのであろうか。 |
大矢谷・白山神社 |
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深田久弥・著「日本百名山」(株)新潮社 |
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